ノリックこと阿部典史が交通事故死
WGPやスーパーバイクで活躍の、ノリックこと阿部典史さんが、一般道をオートバイで走行中、トラックと衝突し、交通事故死されました。
阿部典史(ノリック)の突然の訃報で、しかもレースではなく、交通事故死ということで更なる衝撃を覚えます。先日も、深夜のオートバイレースの録画放送で、久しぶりに阿部典史(ノリック)の声と解説を聞いたばかりでした。
2003年の加藤大治郎の事故死に続き、日本はまた一人、阿部典史(ノリック)という偉大なるグランプリレーサーを亡くしました。 阿部典史(ノリック)さんのご冥福をご冥福をお祈りします。
阿部典史 ノリック 画像
阿部典史(ノリック)とは?
阿部 典史(あべ のりふみ、1975年9月7日-2007年10月7日)は、東京都出身のモーターサイクル・ロードレースレーサー。エントリーネームはニックネームでもある「Norick Abe(ノリック・アベ)」。
東京都世田谷区出身。父はオートレース選手の阿部光雄。5歳からバイクに乗り、ポケバイ、ミニバイクレースを経験した。15歳で渡米しダートトラック、モトクロスの修行をする。全日本ロードレース選手権フル参戦一年目の1993年に最高峰クラスの500ccクラスにおいて、史上最年少の18歳でチャンピオン、そして500ccクラス最後のチャンピオンとなった。
1994年にはロードレース世界選手権(WGP)日本GPでケビン・シュワンツ、マイケル・ドゥーハン等と苛烈なトップ争いを繰り広げながらも残り3周で転倒リタイアしてしまうという、センセーショナルなデビューを飾る。阿部のパフォーマンスのインパクトは、バレンティーノ・ロッシがこの阿部の勇姿に憧れ自らを「ろっしふみ」と名乗ったエピソードが物語っている。
この時点で阿部はホンダ陣営(チームブルーフォックス)の所属だったが、この時の実力を高く評価したウェイン・レイニーからの強い誘いにより、シーズン中ながらヤマハ陣営へ異例の移籍を果たし、WGPにさらに2戦スポット参戦した。当時のヤマハは他社のワークス・マシンに乗っていた日本人ライダーと契約する前例はなく、ウェイン・レイニーの強い希望によって実現したといえる。
1995年よりWGPフル参戦。1996年の世界GP第3戦日本GP(鈴鹿)では、1982年のスウェーデンGPでの片山敬済以来の日本人ライダーによる500ccクラスの優勝を飾る。
2005年よりスーパーバイク世界選手権に参戦の場を移す。 2007年より13年ぶりに全日本ロードレース選手権(JSB1000クラス)に復帰を果たし、今期6戦を終え総合3位。自身のオフィシャルサイトでは10月20日に鈴鹿で行われるレースへの意気込みも記されていた。
2007年10月7日18時30分頃、神奈川県川崎市川崎区大島1丁目の市道において二車線道路の右車線をオートバイで走行中、トラックと衝突した。直ちに川崎市内の病院へ搬送されたが、事故から2時間後に死去した。享年32<ウィキペディアより>
阿部典史さんが事故死「伝説のライダー」 川崎
7日午後6時20分ごろ、川崎市川崎区大島1丁目の市道で、川崎市幸区、レーシングライダー阿部典史(のりふみ)さん(32)のオートバイと、横浜市鶴見区東寺尾1丁目、運送会社員千野智彦さん(51)のトラックが衝突した。阿部さんは午後8時50分過ぎに死亡した。阿部さんは世界GPで過去3度優勝して「伝説のライダー」と呼ばれ、国内のオートバイファンの間で人気があった。
川崎署の調べでは、現場は片側2車線の直線道路。千野さんがUターンしようとした際に、右後方から近づいた阿部さんのオートバイと衝突したという。現場はUターン禁止だった。
〈阿部典史さん〉本人の公式ホームページなどによると、東京都出身で、オートレーサーの父・光雄氏の影響で5歳からバイクに乗り始め、中学卒業後の91年、15歳で渡米して技術を磨いた。帰国後の93年に全日本選手権500ccクラスを制覇した。その後、世界選手権に参戦。96年の世界選手権日本グランプリ(GP)で、オートバイレースの最高峰500ccで日本人としては14年ぶり3人目の優勝を飾るなど、計3度のGP優勝を果たし、「ノリック」の愛称で親しまれていた。ファッションリーダーとしても人気があった。 <2007年10月08日 asahi.comより>